お散歩マップ

登野城方面が青の「とぅぬすくコース」、大川・石垣方面が赤の「ふーがー・いしゃなぎらコース」になります。
ショートコースも以下マップで確認できます。(地図をクリックすると、細かい情報を掲載したPDFファイルが開きます)

まちなかの中心部に位置し、古くから商業の中心となっており、周辺に商店街が形成されてきました。南国らしい野菜や果物を売るおばぁの露天が並び、肉屋や魚屋、おみやげ店、食堂などがあります。
公設市場の歴史
石垣の最初の市場は1899年(明治32)、当時浜から近かった現在の八重山郵便局の南側に設置され、そこでは魚が売られていました。1904年(明治37)には現在の場所に移り、村営の公設市場として整備され、地域住民の日常生活を支える重要な商業施設となります。ここで従事している人は地元の女性でした。市場の中央には井戸があり、井戸を挟んで両側に肉や魚を売る瓦屋根の建物、その周りには露天に板台が置かれ、そこに魚が並べられて販売されていました。夕方から夜にかけては、最もにぎわう時間であり、夜は松の樹脂を燃やして明かりをとっていました。現在の建物は、1987年(昭和62)竣工。

神が存在、あるいは来訪する聖地。地域の祭祀では御嶽が中心的な役割を果たす場合が多くあります。御嶽にはイベ、イビ、ウブなどと呼ぶ聖域があり、神職者以外の者の出入りは禁じられています。

宮鳥御嶽 メートゥリィオン ───
イシスクヤマに住んでいた三兄弟のうちの妹マタネマシスに神の託宣があり、兄弟三人は宮鳥山に拝所を建て、神を敬い、慈悲仁愛の心を持って人々を愛しました。それを知った人々が宮鳥御嶽の周辺に集まり住むようになったことが、石垣村の起源だと伝えられています。昔の宮鳥御嶽は石垣小学校の全敷地を含む広大な森でした。

美崎御嶽 ミシャギオン ───
1500年、オヤケアカハチを倒した琉球王府軍が、無事首里に帰着するよう、マイツバが美崎山にこもって祈願し、願いが叶えられたことから創建されました。代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。史跡と建造物で二重に県の重要文化財に指定されています。

真乙姥御嶽 マイツバーオン ───
1500年、オヤケアカハチと琉球王府軍との戦いで、王府軍に協力した長田大翁主の妹マイツバ(真乙姥)の墓所が御嶽になりました。

南海山桃林寺は八重山初の仏教寺院です。1611年に八重山検地をした薩摩が琉球国王に進言して、1614年に建立されました。宗派は臨済宗妙心寺派で古文献に「自建営住為禅林門徒也」とあるように創建当初から禅宗です。山門の仁王像二躯(阿形・吽業)は1737年に造られました。隣接する権現堂は波上山の流れをくむ神道系の堂宇で神殿・拝殿・薬医門から成り、桃林寺とともに建立され、現在国の重要文化財に指定されています。

蔵元とは琉球王府の出先機関。当初竹富島に設置されましたが、1543年に大川村に移転され1633年に現在の位置に移転。廃藩置県まで琉球王府から役人(在番)が2年任期で派遣されていました。廃藩置県の翌年には蔵元構内に沖縄県庁の分庁として八重山島役所が設けられました。 蔵元の南の道は、船で到着した役人を歓迎する道で、真泊御嶽の西から蔵元までの延長約500m・幅約10mの大道路であったとされます。ウラヌパナミチィ(蔵の前道)とよばれ民謡「蔵ぬ花(ウラヌパナ)節」にもうたわれ、群島規模の祝典はここで執り行われていたそうです。

南西諸島は台風の常襲地帯であるため、住居の屋根は風当たりを避けるために、すべて四方形の寄せ棟造りです。軒の高さは低く、礎石から2,3mが普通です。屋敷は琉球石灰岩や粟石の石垣で囲み、門の内側には前グスクを積んだり、庭木を植えて住居と門の間で台風や魔物への遮蔽物にしました。古くは母屋とトーラ(台所)が別棟になっていましたが、1900年代になると図のように一棟式に変わり始めたようです。

1771年4月24日、八重山諸島は石垣島南南東約40キロを震源とするマグニチュード7.4の大地震による未曾有の大津波に襲われ、石垣島では8村が流壊、5村が半流壊しました。八重山の総人口28,896人のうち犠牲者(死亡行方不明)9,313人にもなりました。その後疫病の蔓延、凶作、飢饉などがあいつぎ、そのためにまた多くの人々が死亡、牛馬も数多くへい死しました。現在も津波で運ばれた「津波石」が各地に散在しています。